5年ほど前からカヅラカタ歌劇団でダンスを、加えて数年前から歌の指導もさせていただいている。宝塚の作品を演じる部活であるカヅラカタに関わっていると、しばしば昔のことが思い出される。私はこの部活を通して、過去の自分を眺めている。

私がダンスが得意ではないことがカヅラカタの指導においては却って役に立っていたりする、ということは以前のブログで度々書いているが、今回はその話とはちょっとズレる。だいぶ昔の話である。どれだけ自分が何もわかっておらず幼稚な考え方しかできなかったかという話。

宝塚音楽学校に入学してすぐ、予科生全員に対して指導員の方から「学校が判断する半数の生徒は、夏休み中に1週間のダンスの補講レッスンを受けなくてはいけない。その生徒の名前は後日発表する。」という告知があった。当時の私は、ただでさえ短い夏休みが1週間縮まるということが死ぬほど嫌だった。補講メンバー発表の日までのせいぜい1ヶ月くらいの間、絶対に補講になりたくないという一心でダンスのレッスンを受け、土日は外部レッスンに通い必死になった。


しかし私はめでたく補講メンバーに選ばれた。先生から自分の名前を読み上げられた時の、絶対に補講になりたくないために頑張ったのに補講になった、というショックがその時の自分にはあまりにも大きかった。即大泣きで実家に電話をかけていた。

同期の中には、補講を受けたかったのに受けられなくてがっかりしていた人もいて、信じられなかった。

それ以来、オーディション・コンクール・受験など明確に勝敗が決まる勝負を死にもの狂いで頑張るということができなくなってしまった。それで負けた時に受けるショックが怖くて、そんなに頑張らなかったから仕方ないよね、という言い訳を自分に残すようになり、当然負ける。そんなことの繰り返しで今に至る。

                     

ダンスというのは、真面目に受講すればレッスン回数がものをいう。だから1週間毎日数コマずつレッスンを受けることはとてもプラスになるのだが、その時はそんなことわからなかった。まだ夏休み中の人もいるのにという不満と、ダンスができない側にカテゴライズされた劣等感で、完全に不貞腐れた態度で受けていた。自分でレッスン代を工面した経験もなく、ありがたみを全くわかっていない。だから補講中の記憶はあまりないのだが、なぜか印象に残っている一コマがある。

補講レッスン中にバレエの先生が、「(あなたたちは)期待されているのよ」と仰った。
その時わたしは、この世にこれ以上あけすけなお世辞があるだろうかと心の底から思い、一層やる気が失せた。現にダンスができないと認定されているのに誰が期待するというのだと、その時の自虐的なやるせなさを今でもはっきりと覚えている。

                     

ある日の、カヅラカタ春公演の歌の指導の帰り道、カヅラカタの子達にソルフェージュを中1の時から行ったらもう少し歌のレベルアップにつながるのではないかと思った。
せっかくダンスやお芝居が上手なのに、正しく音程が取れないために歌で足を引っ張られる子でも、入部してすぐから数年間訓練を続ければ、なんとかなるのではないか。

ということを考えていたら、十何年前のダンスの補講の記憶が蘇ってきて、何のための補講だったのかを初めて音楽学校側の立場から理解した。補講というのは、せっかく秀でている部分があっても不得意分野がそれを帳消しにしてしまうのを阻止するためになんとか引っ張り上げようとしてくれるものだった。すごく良いものを持っていても、すごく苦手なことに足をひっぱられて良さを発揮できないのは勿体無い。そうならないために埋め合わせをしてくれていたのだ。と、書いてみれば当たり前なのだが感覚的には全くわからなかったことが、教える側の立場になってやっと、わかったわけだ。

あの時の、「期待されているのよ」というバレエの先生の言葉は、あながち嘘ではなかったのだろう。