特定の生徒の話を書くことはしないようにしているのでさんざん迷ったが、今回のエドガー役の子に関して、私はこの公演のお稽古を語る上でこの子なしには語れないので書くことにする。

カヅラカタの団員達は、本家(宝塚)の完全コピーをしようとする子と、本家を参考にしつつ自分なりに考えて作っていく子がいる。どちらがいいというわけではなく、人それぞれである。

エドガー役の奥村君は、完全コピー派である。相当ストイックな。

春の新人公演「EXICITER!!」のときも、自分の踊っている映像と本家のその場面の映像を見比べてはまた動画を撮り、を繰り返し、細かいところまで徹底的に本家に寄せようと研究していた。「ポーの一族」のエドガー役に決まったときも、その熱心な完コピ術でやり遂げてくれるはず、と思っていた。

しかし、少年の姿のまま永遠の時を生きるエドガーという役は、本家の明日海さんの演技をそっくりコピーすれば成立するほど甘くはなかった。

基礎練習のみの期間が終わり、場面ごとのお稽古が始まると、私も赤川先生も奥村君の演技に頭をひねることになった。なんか変。明日海さんの身体の動きから表情から口調から歌い方から、よく一高校生にここまでできるなと驚くほどに真似ているのだが、なにかがおかしい。でもどうしたらいいのかわからなかった。

8月に天真さんがご指導にいらっしゃったとき、天真さんとスタッフ数名でお食事をご一緒した。そのとき、やはり奥村君の演技が気になるという話になり、明日海さんの完全コピーをすることが逆に裏目に出ているが、どうしたらいいかということを話し合った。天真さん、久田先生、赤川先生のお話を総合して私はその時、外側を真似するだけではなくエドガーの内面に迫ることが大事だと思った。もともと形だけで芝居する子ではないので、漫画を読みエドガーの抱えている孤独をできるだけ想像し、もっと感情を伴った芝居ができたら解決しそうだと思いそのことをその後のお稽古で話してみた。そういう話をするとき、仲がいいからか相手役だからなのか、シーラ役の中久木君がいつも奥村君の隣にいて、そうっすねとか確かにとか、しきりに相槌を打つ。奥村君は黙って聞いている。彼らは物分かりが良く素直なのでそれからひたすら細かく役の心情を考えてきた。でも、それでもやはりなにか違う感はあまり拭えず本番1週間前になってしまった。

10月2日、天真さんが4日目のお稽古の終わりがけに「お芝居の中で君のパーソナリティーがもっと見えるといいんだけどな」と仰っていた。本当にそうなのだ。お芝居が全部終わるまで、つまり、エドガー役でいる間、彼の持ち味が全くと言っていいほど見えないのだった。

次の日、10月3日、「エドガー役を通して、お客様にあなたの感性が見えるといいということなんだけど」と、少しでも自然な演技に近づける助けになるのではと思うこと、毎回新鮮に反応してお芝居することなどなど、を思いつく限り話してみた。中久木君は相槌を打ち、奥村君は黙って聞いていた。

10月4日、舞台上でのオケ合わせの様子を客席から見ていたら、ある女性スタッフの方が私に「周りの子たちはもう完成してきましたね、あとは奥村君のお芝居だけですね、なんとかなりませんか」と仰る。これは本当になんとかどうにかしなければならない。でも一体どうすればいいのか。本家のコピーは完璧で、相当役の理解も深めているのに、これ以上なにをすればいいのだろう。でもこのままでは、なんとなくもったいない感じで本番が終わってしまいそうだ。役者も裏方も全ての流れを把握している団長が全体を統率し、歌の得意な子、ダンスの得意な子たちが全ての歌ナンバー、ダンスをまとめ、自分が輝くだけではなく公演自体を完成させたいという思いが非常に強い今年の高二。彼らが率いるこの公演、なんとしても完成させたい。というか、このままだと本人がいちばん悔しいと思う。

その日の帰りがけに、一か八か、これでだめなら諦めようと、私はある提案をしてみた。

バンパネラになった後の場面のお芝居だけど、少年役ではなくて、大人の男性の役だったらどう演技するか考えてきてほしい。それで違ったら、また元に戻せばいいから。明日海さんは大人だけど、君は子どもで、しかも何百年も生きている設定なのだから、大人の芝居をすればいいと思うんだ。

私が話している間、彼は相変わらず一言も言わず、私の言いたいことを私の拙い喋りから抽出しようと真っ青なカラコン入りの目でじいっと聞いていて怖かったが私は臆せず話した。最後にひとこと「今までので慣れちゃってるからなあ…」と言ったけれども、いまのままだと、フィナーレになるまでお客様はあなたの良さが全くわからないからがんばれ、と言って私は帰った。

10月6日、最後の通し稽古。プロローグが終わり、お芝居が始まった。エドガーがまだ人間であったころの、メリーベルに水車を作ってあげる場面。その時点で、これはいける、と思った。今までとぜんぜん違う、違和感を感じない自然な演技だった。お芝居全体を通して、まだそれまでの名残が抜け切れていない部分は多少あったけれども、初めてフィナーレより前に舞台上で奥村君自身を見ることができた。

大人の女性(明日海さん)が、身体的に子どもであることを表現するための演技は、高校生の彼には必要なかった。そのニュアンスまでコピーしていたからなんとなくなよなよした変な感じがしていたのだ。お芝居ってなんて面白いのだろう。

この方向であと一日できる限り考えて作ってくるといいよと伝え、

そして10月8日、本番のあの演技である。本番のエドガー役の彼は本当にかっこよかったと思う。フィナーレだけではなくお芝居から、彼自身の魅力がエドガーという役を通して溢れていた。

彼は、何か月もかけて作り上げたエドガー役を、いったんガラガラと取り壊し、もう一度最初から組み立て直したのである。3日間で。本家を完全コピーすることが悪かったのではなく、いったん徹底的に完コピしたからこそ、そして、エドガーの内面を、心情を細かく考え続けたからこそのあのハマり具合なのである。客席からエドガーを見ながら、私も諦めずに考え続けて本当に良かったと思った。彼のみならず、団員ひとりひとりが「ポーの一族」の世界の役を生きていて、全員の力が集結した素晴らしい舞台だった。こんなに感動させてくれて本当にありがとう。

終演後、撤収作業が終了したあと、全員で控室に集まり、代表者が挨拶をし、最後に皆で手を叩いて締める会がある。締めた直後、奥村君が私のところに飛んできた。「先生、話したい事があるんです。今日観てくれた友達が、芝居してるときのひゅーいはひゅーいだったって言ってて。それって先生が言ってた、自分自身が出せたってことかなって思ったんです」と言う。それをわざわざ言いに来てくれたのか。嬉しかった。そういう素直なところが舞台にあらわれていてとっても素敵だった。ひゅーいというのは彼の名前。

ちょっと話がそれるが、先日あるクラシック音楽家の集まりに紛れていたとき、音楽家の先生が言った。「生活に直接役に立つわけでもなく、目に見えず、うまれたそばから時間と共に消えてしまう、そういうもの(音楽)に音楽家は一生を懸けているのです。」それを聞いたとき、果たして自分が歌を勉強している意味はなんだ?と思った。幻にすべてを懸ける意味は。

カヅラカタの公演が終わると、団員たちは普通の学生に戻る。宝塚音楽学校を受験できる団員は一人もいない。あんなに活躍し輝いていた高二の子たちは今頃大学受験に向けて勉強していることだろう。あの本番の公演は、もう二度と生で見ることはできない。たった一日で消えてしまう幻だ。でも、それにいま持てる全てを懸ける意味は確実にある。と今回の公演ではっきりと感じた。人間には心の豊かさか必要だ。東海高校講堂はもとの姿に戻り、あの熱気は跡形もないだろうけれど、あの日の感動は今でも心に残っている。人の心が動くこと、これは何物にも代えがたい価値があるのだ。私も少しでも人の心に響く歌が歌えるよう追求し続けようと改めて思った。

さてさて今回の高二を持ち上げすぎましたが(持ち上げていいと思うんだ)、前回の公演の様子からの、だいたい次回の公演はこんなものだろうという予想を団員達はいつもはるかに上回ってくる。来年度も頑張りましょう。私も頑張ります。